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祈り

10月の月訓は『祈り』です。毎日、生徒たちは祈りのバトンを繋げます。

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そして、朝の時間を使って放送で、高校3年生の平和への祈りが読まれました。その平和への祈りを紹介します。


あと半年で卒業を迎えます。そう思うととても早いと感じます。1年の時にも平和への祈りを書きましたがその祈りをみると、戦争とか貧困のことなどすごいことを書いていました。思い返せば2年前はコロナウィルスもなく、学校生活も行事も何不自由なく行われていました。だから大きなことを書いていたのかもしれません。しかし、今、平和はとても小さいところから、身近なところから始まることに気づきました。食事中の会話、人の顔を見てコミュニケーションをすること、何気ないボディタッチなど当たり前に行っていたことができなくなっています。体育祭や修学旅行、部活動の大会など楽しみにしていたことが中止になり、悲しい思いもたくさんしました。でも“コロナのせい”という言葉は、なんだか使いたくありません。それは、“コロナ”のおかげで日常生活の有難さを知ることができたからです。私たちは、はたから見たら可哀そうな学年かもしれません。でもそのおかげで誰よりも多くのことを学べたと思います。そんな私たちだからできる祈りがあります。それは少しでも早く、世界中で一人でも多くの人に平和な日常が戻ってくることを願うことです。マスクをはずし思いっきり笑いあえる日がきますように。

 コロナウィルスが蔓延し、私たちの生活は大きく変わりました。親しい友と対面で話すことや、出かけることも制限されました。また多くの方が命を落とし、医療従事者の方も疲弊しながらも本当に一生懸命、治療にかかわってくださっています。しかし、依然としてコロナウィルスに決定的な打撃を与えることは難しいようです。私たちも他人ごとではありません。周りの人がワクチンの副反応で休む度に「コロナ前に戻ってほしい。」と思います。
先日、体育祭の中止が決定した後の青組の応援団長の言葉がとても胸に沁みました。私たちにとっては、高校生活最後の体育祭、誰のせいでもないのに団長が謝る姿を見てとても悲しくなりました。同時に「私たちにできることをしよう。」と呼びかけた団長の言葉に、私も私のできることをしようと思いました。私にできることそれは、祈りでした。コロナの収束が少しでも早くおとずれますようにと祈ろうと心から思いました。
 祈るということを気づかせてくれたのは、他でもない純心高校です。入学して間もなく、お昼に食前の祈りが放送されました。ほんのひと時ですが、毎日、手を合わせ祈ることを学びました。ここに入学しなければ知ることのなかった“祈ること”です。「この時間だけは大切にしよう。」と3年間心掛けてきました。5月10月になると祈りのバトンが回り、世界平和のために祈ることができることを知りました。
そして今、少しでも多くの人々が新型コロナウィルスの苦しみから解放されますように。またコロナ関係だけでなく内戦などで苦しむ多くの人々に平和な日々が与えられますように。と私は心から祈ります。

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