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三位一体の祝日

以前、純心にいらっしゃったシスターから、聖母行列の日にお便りが届きました。

三位一体の主日(祭) 2021年5月30日 B年 三位一体の主日(祭)

マタイによる福音書 28章16~20節

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


 先週 聖霊降臨を祝った教会は、月曜日から再び年間に入りました。年間に戻って最初の主日に当たるのが、今日の三位一体の祭日です。私たちは、なぜペンテコステのすぐ後にこの祭日を記念し祝うのでしょうか。今回は、この三位一体の神秘をご一緒に黙想することによって、三位一体の神の深い愛とその交わりへの招きに気づいてゆくことができればと思います。

 教会は、イエス・キリストの生涯とその救いの御業を一年の周期で記念しています。年間は、固有の特質を持った季節(降誕節・復活節など)に比べ、何だか盛り上がりに欠ける期間であると感じられる方もいるかもしれません。私自身も、早くクリスマス、イースターが来ないかなと感じた経験がありました。こうしたお祝いの日を待ち望み、準備することは大切なことですが、年間という時期にも、一つ一つの主日を通して、私たちがキリストの神秘に深く入り込んでゆくようにという意味が込められています。典礼暦は、待降節から始まり、降誕節、降誕節後の年間、四旬節、復活節と続いてゆきます。聖霊降臨の主日を迎えて再開された年間は、復活、聖霊降臨といった大きな救いの出来事を体験した私たちが、その恵みを味わい、さらに生活を通して深く生き抜いてゆく季節、いわばさらなる実践の期間であると言えるでしょう。私たちは、この年間という時期を通して、キリストの神秘全体を黙想し、それぞれの日常生活の中でその神秘に深く生きてゆくように招かれているのです。

 今日の福音箇所は、復活のイエス・キリストが弟子たちを派遣する場面となっていて、マタイ福音書が語る最後のメッセージに当たります。弟子たちはガリラヤに出かけ、イエスが婦人たちを通して指示された通りに山に登ります。山は、神との特別な交わりの場所であるからです。イエスは、山上において、弟子たちと人々に真福八端の教えを語られました(マタ5)。この教えは、キリスト者としての生き方そのものにつながってゆくものでした。そう考えますと、復活後に弟子たちを山上に呼ぶということは、彼らがご自分の弟子として生きてゆくにあたって、キリスト者の生活を要約するこの教えを、もう一度思い起こしておくようにという招きであることに気づかされます。またそれだけでなく、ここでイエスは、山上の説教の後に行われた、数々の愛の業を弟子たちに想起させることを通して、その御業がこれからも続くことを示唆しているようにも感じられます。

 さて、皆さんの中には、三位一体と言うと何か専門的な神学の知識を理解していなければならないのだろうかと、不安になる人もいるかもしれません。今回、実際数名の友人に、三位一体の祭日や三位一体そのものについて、どのようなイメージを持っているかを聞いてみたところ、「よく分からない」、「父と子と聖霊について神学的に理解していても、信仰の上で具体的なイメージは掴めない」とのコメントをいただきました。そこで今回は、三位一体の主日を、聖霊降臨をもって締めくくられた復活節と、この年間との架け橋として捉えてみようと思います。すなわち、昇天され、高く挙げられたイエスと弟子たちとの間には、確かに物理的な隔たりが生じることとなりましたが、今日の祭日は、それでもイエスが「これからも心配はいらないよ」と語りかけてくださっていることを噛み締める日として位置づけられると思うのです。

 では、なぜ「心配いらない」のでしょうか。この問いが、この祭日を今日に定めていることの意味を深める上で、大切なポイントになっていると思われます。マタイ福音書の冒頭には、イエスの誕生をヨセフに知らせた天使が、次のように告げる場面があります。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神が我々と共におられる』という意味である。」(マタ1・23)

 福音記者マタイは、この冒頭のメッセージに対応した形で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉で福音書全体を締めくくっています。そこには、主が私たちと常に共にいてくださるということを、初めから終わりまで一貫して強調したいというマタイの意図があります。つまり神は、イエスの受肉、誕生の時からその死に至るまで私たちと共におられる方であるだけでなく、復活、昇天の後もずっと私たちと共にいてくださることを固く約束して下さっているのです。このマタイ福音書の中心的なメッセージを理解するならば、私たちは、イエスの語られたすべてのことを、「神が共にいてくださる」ということを通して受け取るよう招かれていることに気づかされます。

 ここでイエスは、すべての人を彼の弟子とすることを、最終的な使命として弟子たちに託しました。それは、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けることによってでした。洗礼を受ける時、私たちは水をかけられますが、洗礼には本来「浸す」という意味がありますから、水の中に身を沈めているということになります(教派によっては水の中に体を沈める浸礼を採用している教会もあります)。そのため洗礼には、罪を洗い流すということだけでなく、神の息(霊)に満たされるという意味も含まれています。そして何よりも私たちは、この洗礼によって、水の中に沈んで一度死に、古い自分を脱ぎ捨て、同時に新しい人として生まれるという、イエス・キリストの十字架上における死と復活にあずからせていただくのです。

 こうして、洗礼が「父と子と聖霊の名」によることの真意は明らかになります。すなわち、この洗礼は、単なる弟子になるための通過儀礼のようなものではなく、実際に三位一体の神の愛の交わりへの招きなのです。私たちは、この愛の交わりに身を預けることによってこそ、永遠のいのちをいただきます。ですから、イエスがこの地上からは離れてしまっても心配しなくて良いのです。「父と子と聖霊の名」による洗礼によって、私たちはこれからも、父と子から遣わされた聖霊の助けによって歩んでゆくことが出来ます。

 そして、この洗礼が「父と子と聖霊の名」によるものであればこそ、弟子たちの使命は、現代の私たちにも受け継がれるものとなりました。永遠である三位一体の愛に留まっている限り、私たちキリスト者の共同体もまた、その永遠性に与るからです。主の昇天の後に遣わされた聖霊は、私たち一人一人の内に住まわれ、力を与えるばかりでなく、父と子と聖霊の交わりに私たちを招き入れ、そこに結び合わせ、相互に助け合うようにも促します。私たちは、この三位一体の愛の交わりのうちに生きてゆくことによって、信仰生活をより豊かに深めてゆくことが出来るのです。

 ところが、復活されたイエス・キリストに出会った弟子たちの中には、ひれ伏す者もいれば、疑う者もいたと記されています。これは、ある人は礼拝して、またある人は疑念を持っていたという特定の人物のことを指しているというよりも、弟子たちの姿を通して、私たち人間の姿があらためて提示されているのだろうと思います。人は誰しも、神に造られた善い者としての、復活のキリストを賛美し感謝する一面を持っていながら、同時に、キリストと出会ってもなお疑ってしまうような、不信仰へと傾く一面も持っています。皆さんの中にも、このコロナ禍で教会活動が制限される中、聖霊の働きが感じられないと悩まれている方がいらっしゃるかもしれません。確かに、自分自身の気持ちとは裏腹に、この社会は目まぐるしい変化を遂げています。これによって、今私たちが、一日一日を乗り切ることで精一杯になり、なかなか父と子と聖霊の愛の交わりに入ってゆくことの出来ない状況になっていたとしても、それは全く不思議なことではないでしょう。

 しかし、そのような状況にあったとしても、やはり心配はしないでほしいと思います。なぜなら、こうした私たちの不信仰にもかかわらず、イエスはご自分から弟子たちのいる方へ「近寄って来て」くださり、彼らに聖霊をお遣わしになるからです。これは福音書にはあまりにも自然に書かれていて、思わず読み飛ばしてしまうところです。しかし、そこにこそ神は本当にさり気ない方であるという、神の本質が明らかにされています。

 私たちは、毎日何気なく呼吸をしています。日常においては、生きている間に一体何回息を吸って吐いているかどうかなど考えることもないことですが、今の私たちが生きているのは、数え切れないくらいの呼吸を繰り返してきた結果です。天地創造の初め、神はアダムを創造された時に次のように述べています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2・7)聖書は、自分の力だけで呼吸をしているようで、実は神の息によって生きる者とされているのだということを私たちに教えています。ここにも、見返りを求めない神のさり気ない愛が表れています。

 三位一体の神の完全なる交わりを黙想する時、私たちは、こうした神の働きにより敏感になり、神によって生かされているという真実を深く観想するよう招かれています。ですから、私たちが日頃から何気なく自ら行っている他者への親切や思いやりや、物事への誠実な取り組みなどは、それ自体も自分自身の力だけではなく、むしろ聖霊の助けによって促され、励まされているのだということをますます知り、深めてゆかなければなりません。

 そこで私たちに出来ることは、神からさり気なく注がれている恵みに気付けるよう常に心を研ぎ澄ませてゆくことでしょう。一日、三分程度でよいので、独りになり、沈黙のうちに心を静める時間を意識的に設けてみてください。その際に大きく息を吸って、吐いてみてください。これに一体何の意味があるのかと思われるかもしれませんが、神からいただいている自然な愛に気付く環境を整えることが重要なことなのです。心静かに過ごし、息を感じるこの時間が、神の愛にこの身を委ね依り頼んでゆく、すなわち心のゆとりを広げることにつながってゆくことでしょう。

 これからの季節を、三位一体の神秘を深め、日常生活のあらゆる場において三位一体の神の愛の交わりを模範として過ごしてゆくことが出来ますように、共に祈り求めてまいりましょう。

(by, M.M.K.S)

このお便りを通して、心穏やかに自分と向き合う時間の大切さを教えていただきました。先生ありがとうございました。

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